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論文『分断の映画史・第三部』
『分断』の見分け方~ハワード・ホークス「リオ・ブラボー(RIO
BRAVO)」より 2024.6.29 藤村隆史
■「リオ・ブラボー」(1958)の終盤、敵一味を倒した後、ホテルの二階の廊下をやって来て部屋の中を見ているジョン・ウェインから、部屋の中のタイツ姿で靴ひもを結んでいるアンジー・ディキンソンへと内側から切り返される(私の数え方ではここが切り返しの1ショット目。内側から切り返されるということは2人の内の1人しか画面の中に収められていないということ)。さらにジョン・ウェイン→ディキンソン→ウェインと内側から切り返され、ここでウェインは部屋の中に入って来る(4ショット目)。さらに内側から切り返された5ショット目でディキンソンは絵の掛けられている壁へ向かって接近し、テーブルの上に置いてあるネックレスを首にかける(Ⅰ)。そしてまたウェインへと内側から切り返されたあと、7ショット目にネックレスをつけ終わったディキンソンへと内側から切り返され(Ⅱ)、そのまま持続したショットでディキンソンはウェインの方へ歩み寄り、2人は『正常な同一画面』に収まっている。ここまでのそれぞれのショットとその関係を見ていくと、
① キャメラは人物の正面からでなくやや斜めから切り返されている。
② イマジナリーラインは整合している。
③ すべてフルショット(ないしウエスト・ショット)で撮られており、キャメラが寄ったり引いたりアングルを変化させることはない。
④ 照明は全般的に明るく照らされ切り返される度に修正された形跡はない。
■現実に同じ空間に2人が存在し見つめ合っていること
7ショット目にキャメラはウェインからディキンソンへと内側から切り返され、しばらくしてからディキンソンはウェインの立っている方向へと歩き出す。するとそこには本物のジョン・ウェインが現実に立っていて、2人はそのまま『正常な同一画面』に収められることになる。ここまでは検討した。そこからさらに持続したショットでディキンソンはウェインから再び離れて絵の掛けられている壁の前に置かれたテーブルに寄りかかったあと(Ⅲ)、再びウェインのいる方向へ歩き出すと、そこにはまたもや本物のジョン・ウェインが現実に立っていて2人は再び『正常な同一画面』に収められる(以上7ショット目)。このジョン・ウェインと現実に向き合った同一の空間において撮られた7ショット目のⅡと、同一の7ショット目において再フレーミングされたⅢは、カットを割られて内側から切り返された5ショット目の(Ⅰ)と「同じ写真」に見える。特にネックレスをつけるところのⅡとⅠとはまったく「同じ写真」に撮られている。そして(Ⅱ)と(Ⅲ)は、本物のジョン・ウェインと現実に向き合った空間で撮られていることからするならば、Ⅰもまた、内側から切り返されてはいるものの、ディキンソンの視線の向こうには本物のジョン・ウェインが現実に立っていて彼女を見つめていたと推測すべきである。ここで考察・推測されるのは、ディキンソンとウェインはこの1ショット目から7ショット目までのあいだ、
⑤ 現実に同じ空間に存在し、かつ、向き合い、視線を合わせていた、ということである。
内側から切り返された5ショット目と、内側から切り返されたあとそのまま『正常な同一画面』に2人が収められる7ショット目が「同じ写真」に見えることは、7ショット目のみならず5ショット目のディキンソンの視線の向こうにも本物のジョン・ウェインが現実に立っていて彼女を見つめていたと推測することの補強となる。そうである以上①~④の妥当する1~4ショット目についてもまた2人が現実に見つめ合っていたと推測することは可能である。
■別々に撮られていない、とは
①~⑤の妥当する(ないしはそれが推測される)この7ショットに及ぶ内側からの切り返しは「ずれ」ていない。するとこの「ずれ」ていない内側からの切り返しは『別々に撮られていない』ことになる。別々に撮られていないとは、典型的な事例を挙げるならば、2人の人物AとBを内側から切り返しながら撮る時、キャメラは現実に向き合っているAとBの視線を邪魔することなく、全体をまんべんなく照らす明るい照明によって、物語の順番通りにABABABAと順次切り返して撮ることを指す。我々の現実の世界の時間と空間がそのまま守られながら撮られている場合、多くの場合『別々に撮られていない』ことになる。キャメラは1台のこともあれば2台のこともある。
1キャメラは人物の正面からでなくやや斜めから切り返されている。正面から撮られている場合、キャメラが2人のあいだに入ることになり、人物は相手ではなくキャメラを見ていることから我々の現実世界からの逸脱が生じている。『分断の映画史・第二部』において検討された『キャメラを正面から見据えること』は『別々に撮られていること』の判断のひとつになる。
2イマジナリーラインが合っている。イマジナリーラインがずれている場合、内側から切り返される相手が視線の先に現実に存在しないことになり、我々の現実の世界から逸脱する。
3同じサイズのショット(フルショットないしウエスト・ショット)で撮られていて、キャメラが寄ったり引いたりアングルを変化させることはない。サイズ、アングルが変化する場合、撮影が中断され、変化したサイズ、アングルに向けた撮影へ修正されることから(修正されない映画も多い)、我々の現実の世界から逸脱する。ただし予めアングル、サイズを変えた複数のキャメラで持続して撮られた場合、その都度の修正がなされていないことから現実世界からの逸脱は最小限に収まることになる。
4照明は全般的に明るく照らされ、切り返される度に修正されない。我々の現実世界の『太陽』は一つであり、仮に室内照明の数が複数あったとしてもそれらがその都度修正されない限り『別々に撮られている』ことにはならない。
5 2人の人物が現実に同じ空間に存在し、向き合い、視線を合わせている。
以上がこれまでの7ショットに見られた特徴である。1~5はすべて相互に絡み合っており独立した要素ではない。ポイントは我々の現実世界の時間空間に整合して撮られているか否かである。所謂『長回し』についても基本は同じであり、ヒッチコック「汚名」(Notorious)」(1946)のケーリー・グラントとバーグマンとの浜辺のホテルでの回転しながらのキスシーンの長回しはキャメラマンのテッド・テズラフは照明を修正しながら撮っているし、アンドレ・バザンがよく言葉にした『再フレーミング』というのも、持続した長回しの中でもうひとつの『ショット』を撮るような撮影を意味しているのであり、ただキャメラを止めないだけの撮影を意味しているのではない。長回しはオーソン・ウェルズ「黒い罠(TOUCH OF EVIL)」(1957)のオープニングのように人も金も時間もかかる撮り方でありそれが過ぎると呪われることになる。
■ジョン・ウェインの影
先を見て行こう。7ショット目は90秒ほどの長いショットが撮られていて、その間にジョン・ウェインは部屋の中央あたりまで移動し7ショット目の終盤にはディキンソンが逆に戸口の方へと歩き始める。8ショット目にウェインへ内側から切り返され、再びディキンソンへと内側から切り返される。これが9ショット目。ここで戸口に移動し涙を見せて振り向いたディキンソンの横の壁にテンガロンハットをかぶった人物の影が投射されている。そしてこの影は、オフ空間から聞こえてくるジョン・ウェインの声に呼応するように動いている。さらにウェインへと内側から切り返されてから再びディキンソンへと内側から切り返される(11ショット目)と、さきほどの影は依然としてディキンソンの横の壁に映っている。そのままディキンソンはウェインの立っている方向へと歩き出すとそこには本物のジョン・ウェインが現実に立っていて2人はそのまま『正常な同一画面』に収まることになる。それによってあの壁の影はディキンソンの向かいに現実に存在して立っているジョン・ウェインの影であり、『正常な同一画面』に2人が収められた11ショット目はもとより内側から切り返された9ショット目も11ショット目と「同じ影」が壁に投射されていることなどから『ディキンソンの視線の向こうには本物のジョン・ウェインが現実に立っていて彼女を見つめていた』と推測されることになり、するとこれもまた『別々に撮られていない』ことの一端となりそうである。
■着替える
さらに先を見て行くと、11ショット目でウェインと『正常な同一画面』に収まったディキンソンは、12ショット目にもそのままウェインと『正常な同一画面』に収められながら衝立の向こう側へ回りウェインを見つめながら着替え始める。この時点でも2人は『正常な同一画面』に収められている。そこからキャメラはウェインへと内側から切り返され、再びディキンソンへと内側から切り返される(14ショット目)。ここでこのシークエンスで初めてキャメラがディキンソンに寄る。さらにウェイン→ディキンソン(16ショット目)→ウェインへと内側から切り返され、さらにディキンソンへと内側から切り返されると(18ショット目)、キャメラは元のサイズに引かれている。そのままディキンソンはウェインの立っている方向へと歩き出すとそこには本物のジョン・ウェインが現実に立っていて、2人は『正常な同一画面』に収まることになる。そうするとこれまでの推察同様、11、12、18ショット目で2人が『正常な同一画面』に収められたショットのみならずそれ以外の内側から切り返された13~17ショット目においてもウェインとディキンソンの2人はずっと同一の空間に存在し視線を合わせながら話していた、という推測が成立しそうである。
■だが、、
14ショット目にキャメラがディキンソンへと寄っていることから、ここで一連の同一サイズにおける流れは中止されている。キャメラが寄る、引かれる、とは、ショットのサイズ、角度などが変化することであり、それによって流れは中止される(されないことも多い)。そこでその「中止された」14ショット目を見る前に、その直前の12ショット目を見てみる。12ショット目でディキンソンはジョン・ウェインと『正常な同一画面』に収められたまま視線を合わせ衝立の裏に回って着替えを始めている。そしてこの12ショット目の衝立には、画面の中に現実に立っているウェインの影が衝立の上部にはみ出して映っている。ところがキャメラがディキンソンへと寄った14ショット目では、テンガロンハットの影が衝立の上からはみ出ることなく衝立の中にくっきり映っている。照明が修正されているわけである。さらに16ショット目の影もまた14ショット目と同じ影が衝立に映っている。しかしその後、キャメラが引かれた18ショット目の影は12ショット目と同じように衝立の上部へとかぶさっている。そのままディキンソンはウェインへと近づいていき2人は『正常な同一画面』に収められている。すると結論はこうなる。キャメラが寄って撮られた14、16ショット目は、引かれて撮られた12、18ショット目とは別々に撮られている。
■12ショット目
ここでディキンソンの視線を見てみると、12ショット目でジョン・ウェインと『正常な同一画面』に収まったまま衝立の裏に回って画面の中のウェインを見つめているディキンソンの視線と、その後ウェインへと内側から切り返されてから再びディキンソンへと内側から切り返された14ショット目で画面の外にいるウェインを見ているディキンソンの視線はほぼ同じ方向の同じ場所を見つめている。するとカットが割られてはいるものの12ショット目と同じ方向を見つめて話している14ショット目のディキンソンの視線の先にもまた現実にジョン・ウェインが立っていたと想像するのもおかしくはない。だが、そう仮定すると衝立に映っているウェインの影がおかしい。ウェインは12ショット目と同じ場所に立っているはずなのに影だけが14ショット目には下の方へ移動している。もしウェインが12ショット目と同じ場所に立っているとするならば。それまでと違った光をジョン・ウェインの後方の天井あたりから強く当てない限りあの影はあそこに投射できないはずである。だがディキンソンの背後のレースのカーテンに映った彼女の影を見ると、12ショット目と14ショット目で大きな違いを見出すことはできない。すると結論はこうなる。ジョン・ウェインはしゃがんでいる。
■しゃがんだジョン・ウェイン
14ショット目と16ショット目での衝立の影をあの位置に投射するには、ジョン・ウェインはしゃがむか、椅子に座るかしかない(他のスタッフが代わりに影を演じることもある)。仮にそれ以外の手段があったとしても、14ショット目と16ショット目のアンジー・ディキンソンが現実に目の前に立っているジョン・ウェインと見つめ合いながら話しているのではないことはまず間違いない。すると『しゃがんでいないジョン・ウェイン』へと内側から切り返された13、15、17ショット目のジョン・ウェインのショットもまた別々に撮られていることになる。
■『奇妙な同一画面』
遡って9ショット目と11ショット目でのドアの影は、ディキンソンの横の壁にテンガロンハットをかぶった人物の影がはっきりと映っている。おそらくここでも照明の修正がなされているのだろう、偶然にしてはくっきりと映りすぎている。また9、11ショット目と、14、16ショット目は、ディキンソンとウェインの「影だけ」が同一画面に収められていることから『奇妙な同一画面』となる。そしてその「奇妙な影」を撮るために照明を修正している。特に16ショット目を見ると、『私おしゃべりね』とディキンソンが言った後、衝立に映っているテンガロンハットの影が首を傾げたように大きく傾くのだが、直後に内側から切り返されたジョン・ウェインはそれほど首を曲げているわけではなく(別々に撮られているのだから当然)、この衝立のテンガロンハットの影は「影だけ」が意図的に大きく傾けて別々に撮られたことになる。『分断の映画史』・第二部』において「『奇妙な同一画面』が『分断の映画史』と結びつくのは、その同一画面が奇妙であるがゆえに却って画面における分断性が強まるという逆転現象に基づいている。同一画面が奇妙であればあるほど、そして『奇妙な同一画面』が多ければ多いほど、同一性は破壊され分断の性向を強めてゆく。『奇妙な同一画面』は意図的に撮られるショットであり、中には偶然の産物があるとしても、映画史における余りにも多く撮られている『奇妙な同一画面』の存在は、最早議論の余地を残すものではなく、あとはそれが意識的に撮られているのか無意識的にかに過ぎない。」と書いた。9、11ショット目と、14、16ショット目の『奇妙な同一画面』における影は意図的に照明を修正して撮られていることからして、この一連の切り返しを『分断』として撮る意志を見出すことができる。一見、インスタントに撮られているように見える内側からの切り返しの過程において、ここ、というシーンでまるで潜在意識へ働きかけるかのようにちりばめられた幾つかの過剰なショットをさり気なく挿入する、そこにハワード・ホークスの一端を見ることができるかもしれない。
■『ハワード・ホークス内側からの切り返し表』を提示する。
「リオ・ブラボー」には非常に多くの『分断』が撮られている。その中の『分断表①』を見ると、映画の開始直後、酒場のカウンターで酒を注いでいる男(悪役のクロード・エイキンス)とそれを恨めしそうに見ている飲んだくれの男ディーン・マーティンとのあいだでキャメラは何度も内側から切り返されている。そして男がたん壺の中に投げたコインをマーティンが拾おうとしたところで出て来た足がそのたん壺を蹴飛ばし、キャメラはローアングルから足の張本人、ジョン・ウェインをほぼ正面のローアングルから撮ったバスト・ショットへ内側から切り返される(A)。さらに内側から切り返されたキャメラでは跪(ひざまず)きながら上を見上げているディーン・マーティンをほぼ正面からのバスト・ショットで捉えている(B)。向き合っている人物の内側からの切り返しショットが正面から撮られる場合(①)、仮に現場に俳優が現実に2人共居合わせたとしてもキャメラは2人のあいだに入り込むことになるのだから当然ながら向き合っている2人のあいだの現実の空間を阻害することになり、人物は誰もいない空間(あるいはキャメラ)へ視線をやりながら演じることになる(⑤)。たん壺を蹴飛ばされた瞬間ジョン・ウェインの足と同一空間に収められたマーティンは真上あたりを見つめているのに対してその直後の内側から切り返された(B)ではそれよりもずっと下の方向を見ていることからも明らかである。ここではジョン・ウェインに内側から切り返されたショットがいきなりローアングルからのバスト・ショットになり、さらに内側から切り返されたディーン・マーティンのショットもまたいきなりローポジションに変化したバスト・ショットが撮られている(③)。ローアングルから撮られたジョン・ウェインの顔にはしっかりと光が当てられ、次のディーン・マーティンの体にもしっとりと光が当てられている。アングルと高さが変化したにもかかわらず的確な光が当てられているということは、照明が修正されている(④)。それまでは人の目の高さから撮られていた画面がサイズとアングルと高さを唐突に変化させ修正された照明で撮られることで物語のゆるやかな流れを断絶させている。
■分断表⑥
映画が始まってから20分過ぎ、『夜、町の見回りに出て通りの左側を歩いてゆく保安官と通りの右側を歩いてゆく飲んだくれとのあいだは、20ショット目でロバに驚いた保安官の元へ飲んだくれが駆け付けるまですべて内側から切り返されている。別々に撮られている。』、と書かれている。なぜ『別々に撮られている』のか。保安官たちは道を挟んで二手に分かれて夜の街を見回ってゆくのだが、もしこれが『別々に撮られていない』とするならば、ジョン・ウェインとディーン・マーティンが通りを挟んで同時に歩みを進めながら、全体を照らす明るい照明で2人は照らされ、視線を交わし合うジョン・ウェイン、ディーン・マーティンの向こうには現実のディーン・マーティン、ジョン・ウェインが存在して視線を返しながら、キャメラはウェイン→マーティン→ウェイン→マーティン、、と内側から切り返されている、、ということになる(あるいは2台のキャメラで)。従ってその内側から切り返されるキャメラは2人のあいだを邪魔することなくやや斜めに配置され、イマジナリーラインは整合し、ショットのサイズも変わることはない。しかしここは夜の街であり2人は薄暗い通りを歩いていることから照明は明るく全体を均等に照らす光ではなく、「その人」を「そのひと」として照らす部分的光としての傾向が強くなる。事実2人にはしっとりとした光が終始当てられ、その影は歩いている通りの壁側にくっきり映っているのであり、それぞれ中央付近から『別々の光』を当てない限りそのような影が映ることはない。特に途中、寝間着姿の男が裏階段の上から出て来た時、彼の体にはドンピシャの光が当たっているように、一つの光源ではありえない光が当てられている。さらに裏階段から出て来た男が敵ではないと分かってからジョン・ウェインへ内側から切り返された時、ウェインは視線を上から下へ移している。この視線はオフ画面(寝間着姿の男)からオフ画面(ディーン・マーティン)へと視線を切りながら移す演出であり(オフオフ)、この手法については「脱出(TO HAVE AND HAVE NOT)」(1944)の分断表④にも書いているが、基本的にそのオフの空間に実際の人物が不在の状態でなされる方法であり、実際にそこにいる人物を見ているわけではなく、瞳を動かすことで画面の外の人物の存在なり動きを偽装する演出であって(視線を切らずに持続させる成瀬目線と機能は似ている)、こういった視線が撮られていることはこのショットが『別々に撮られている』ことの裏付けとなる。またドアが不意に開きジョン・ウェインが口笛を吹いてマーティンに合図する時の2ショットはその直前のショットよりも暗く抑えた光の空間へと一変され、ウェインの顔には光源が一つであればあり得ない、それまでとは逆方向からの光がペタッと当てられている。アングルが変更され、それに伴って照明も修正されている。
■ハワード・ホークス
ホークスは内側からの切り返し表の『正面表』にあるように正面を見据えるショットが非常に少なく、さらに「赤ちゃん教育(BRINGING UP BABY)」(1938)の『■評』に書いたように、キャメラを正面から見据えた2人を相互に内側から切り返して『分断』させるようなキツイ撮り方はしない。一見何の変哲もないさり気ない時間と空間の連鎖の中にふと過剰な画面を忍び込ませてショットを撮る。外側からの切り返しが非常に多いのもそうしたホークスのひとつを指し示している。
■別々に撮られること
別々に撮られていることは分析をするまえに見て感じることであり一連の画面の連なりがふとした瞬間に途切れて断絶されたと感じる時、その画面には夢の世界が撮られていたのかもしれない。我々の現実の世界には2人の人間のあいだにキャメラが入り込むこともなければ、人が誰もいない空間に向かって話しかけることもなく、アングル、高さ、遠近が唐突に変化することもなければ、1つであるはずの『太陽』が幾つも出現することもない。